才能、好きなこと、大切にしていること

先週、浴室のシャワーからお湯が出てこなくなるという出来事がありました。
正確にいうと、出るには出るのですが、水量が極端に少なくなってしまったのです。
私のパートナー(奥さん)は、この事態に見事に対処してくれました。

どこがおかしいのか?カランからはいつも通りお湯が出ている。
シャワーのホースをよく見ると、ビニールコートの内側に亀裂がある!
と、この状況の原因を特定し、ホースの交換に必要な器具と、ホースのメーカー・型番を調べ、近所で売っているお店がないことを確認し、amazon で発注。
二日後にはホースの交換を終えて、元通りの快適な浴室に戻してくれました。

彼女は、状況を分析して、解決のための行動をすぐに起こせる人です。あれこれと考え込まず、思いついたら行動するのです。彼女はこのようなことが「苦もなくできる」のです。一緒に暮らしている私には、これが彼女の才能なのだとすぐに分かりました。

私には彼女と同じ才能はありませんが、私は、その人の人生にどのような物語があり、主人公はどのような意図でこの行動をとったのか、この人の希望はどのようなことなのか、ということに関心を寄せることが好きなのです。これは「物語に惹かれる」という才能だと思っています。

苦もなくできたり、いつも関心を寄せたり、惹かれたりする物事。
そういうものと一緒にある時、私は充実した時間を過ごすことができ、幸せな気分になれます。
そして、この幸せな気分というのは、自分が大切にしていることと繋がりがあると思っています。

以前、クライアントの方にはお話ししたことがありますが、私が好きな音楽には「YOUR SIDE」や「そばにいる」という歌詞が含まれていることが多く、好きな映画には「主人公が未来をあきらめずに行動する」というストーリーの映画が多いのです。昨日は「Britain’s Got Talent」「America’s Got Talent」の動画を久しぶりに観ていました。

好きな音楽、映画、TV番組、雑誌、本、絵画、ご自身の価値観が現れることがあります。もしかすると、食事の好みや好きな香りにも現れるかもしれませんね。

どのような点が好きなのか、どのような点に魅力を感じるのか。
この投稿を読んで下さった方は、いかがでしょうか。

物語が育まれる社会を

今日はある方と一時間ほどお話をしました。この方は、ある勉強会を通じてお知り合いになった方ですが、ゆっくりとお話をしたのは今回が初めてでした。カウンセリングやコーチングではありませんでしたが、ご自身のこれまでの人生、大切にされてきたこと、今の転機への対処についての実直なお考えを伺い、胸を打たれました。その方が新しい人生を歩むために周到な準備をされ、人生の新しい章の脚本をどのようにお書きになり、また演じていかれるのか、とても楽しみに思っています。

私は今年の5月に55歳になりますが、自分の人生を毎年振り返っていたなら、少なくとも、400字詰め原稿用紙で毎年2枚~3枚の物語を毎年書けていたのではないか、と思います。もし、そのようなことを続けていたとしたら、読み応えのある物語になるでしょう。そのような物語を演じてきた自分を、私はどのように語ることができるでしょうか。

「私は東京都で生まれ育ち、公立の小・中・高を卒業後、大学に進学した。その後、都市銀行と居酒屋を経て、情報処理企業に約23年勤務した会社を早期退職し、現在は人材育成の仕事に携わっている」

「私は幼少期から家庭においても学校においても暴力を目の当たりにすることが多く、自分自身もいつしかキレることを覚えた。今も他者と親密な関係を築くことの難しさを感じることはよくある」

「私は小児喘息を克服し、苦手な運動もラグビーを通じて克服し、就職後、大きな失恋も経験したが、今は大切な人と幸せになるための挑戦を25年続けている。カウンセラーとしての学びも続けている」

「私は文章を書くことが好きで、ブログ記事を書き続けていた。中断した時期もあったが、自分の考えを言葉にしたものを誰かが読んだり、聴いてくれることを喜ばしく思う」

時系列で外的キャリアを説明しただけの物語も、問題が染み込んでいる物語も、問題を克服してきたという物語も、自分が好きなことを続けてきたという物語も、全て私の物語であり、耳を傾けてもらえる機会さえあれば、語ることができる物語です。そして、皆さんにも、皆さんだけの分厚い物語があると思います。

しかし、自分の物語を自由に語ろうとすることが憚られることがあります。私達が暮らす、働く社会や文化が「当たり前」とすることや、「常識」とすることが、私達の物語を語りづらく言葉を奪うことがあるのです。「当たり前」や「常識」というものは、言語化されているものもあれば、そうでないものもあります。法律のようなものもあれば「普通は」という枕詞を伴って、私達の前に現れるものもあります。

「当たり前」「常識」「普通」という言葉の前で、私達はせっかく紡ぐことができた自分の物語を無力にしてしまうことがあります。その物語を消しゴムで消してしまうことがあっても、私達は、自らの一様でない物語を、語りなおすことができることを信じることはできます。そして、そのような機会を持つことを求めることもできます。

ゆたかな自らの物語を語り合い、楽しむことができたら、私達は自らの人生や命を、もっと大きく育むことができるのではないでしょうか。

一人ひとりの物語が、もっと大きく育まれていく。

私達は、そのような社会を創ることができると思っています。

2022.01.09 (日) 新宿御苑の蠟梅 (ロウバイ)

今日、井の頭公園で

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

皆さんは、新年をどのようにお迎えでしょうか。私は、過去に行ったカウンセリングの振り返り、読書、そして、このブログや facebook への投稿など、少しずついろいろなことをしました。夕方にはお風呂に入って、自分の鼓動を感じたり、血流の滞りを感じたりしました。お風呂上りにはストレッチと瞑想をして、明日からの仕事再開への準備を整えました。

午後、武蔵野市吉祥寺の井の頭公園でカワセミを見ました。カメラを持たずに出かけたので、スマートフォンのカメラで撮影したものの、きれいに撮影できませんでした。これは自宅近くの公園で一昨年の秋に撮影した写真ですが、本当はこのようにきれいな青い鳥です。

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年末年始、ずっと働き続けてきた方もいらっしゃると思います。本当に多くの方々が、毎日、働いて、生きている。この時期は、いつもそのことを再認識します。ナラティヴ・セラピーの学び直しを始めたところですが、そういう方々の人生の物語を大切に聴かせて頂くことに真摯に取り組んでいきたいと思います。

青い鳥は、希望を持つ方の胸にいつも住んでいると思っています。

2021年の振り返り、そして御礼

今年は、コロナ禍のなかでオリンピック・パラリンピックが開催されたり、日米の首相が変わったり、いろいろな出来事がありました。

今年の出来事(時事通信)

このブログを読んで下さっている皆さんにとって、2021年はどのような一年だったでしょうか。

明後日から始まる2022年を迎えるにあたり、自分自身の成長のための足場づくりとして、2021年の出来事を振り返っておこうと思います。

ビジネスパーソンとして:
昨年9月末に退職し、今年2月に再就職。前職で経験したことのない仕事と毎日「取っ組み合い」をしています( 今の私には「取っ組み合い」という言葉がぴったりです )。コンフォートゾーンを離れたことで、過去の自分がいかに与えられた環境で甘えられていたかを知るとともに、私のなかに「これが正しい」あるいは「こうあるべき」といった凝り固まった観念があること、それを手放すことができれば、自分にはまだ伸びしろあること、そして、皮肉なことに、新たな川岸に辿り着きながらも、いまだに探し続けている世界があることにも気づいています。

退職・離職・再就職は、私の53歳から54歳にかけてのイベントでしたが、ブリッジズの理論に当てはめてみると、私のトランジションはおそらく2016年頃から始まっていて、長い時間をかけて、おそらくまだニュートラルゾーンなのだと考えています。

キャリアコンサルタント・コーチとして:
今年も、細々とではありますが、知人の方や、プラットフォーマーによるマッチングを通じてご紹介頂いた方から、大切なお話を聴かせて頂きました。また、官公庁後援のイベントでのキャリアカウンセラーも務めさせていただきました。

私は、キャリアコンサルタント・カウンセラーとして、企業や学校、あるいはハローワークのような労働需給調整機関で働いたことはありません。対人支援職としては言わば「野良(のら)」ですが、この立場にいるからこそ、その方の物語にただ耳を傾けようとする会話の相手でいることが容易なのかもしれませんし、そのような相手であるからこそ、聴かせて頂けるお話もあるかも知れません。クライアントは募集していますし、多くの方の物語に触れたいと思ってはいますが、信頼し合える方と長くお付き合いしたいタイプなので、しばらくはこのような形で続けられればよいと思っています。

また、今年は、医療に携わる方々が主催する「リフレクティングを学ぶ会」に毎月参加させて頂くことが、私の一番の楽しみでした。そこは私にとってトレーニングルームでもあり、活力源でもありました。心と命を扱う方々と、安全・安心な場で、いろいろなお話を聴かせて頂いたり、自分の話を聴いてもらったりすることが、「取っ組み合い」の毎日を送る私を支えてくれていました。

さらに、私自身をナラティヴ・アプローチに引き寄せた出来事が二つあります。一つは、5月にナラティヴ・セラピーのトレーニングを受けている方々とお話しする機会を頂けたこと、もう一つは、その方々のおひとりから、私自身がナラティヴ・カウンセリングを受ける機会を頂けたことでした。その方とは四回に渡って会話を続けさせて頂き、リフレクティングチームの方々にもリフレクティングをして頂くことになりました。この二つの出来事が、私の背中を押してくれたおかげで、来年2月からナラティヴ実践協働研究センターが主催する10か月のワークショップ・シリーズに参加させて頂けることになりました。

この出来事の連なりは「私をナラティヴに引き寄せるものは何か」という問いの答えをあらためて私に示してくれました。その答えは、ナラティヴ実践協働研究センターのホームページ にある「人が問題なのではなく、問題が問題なのである」「その人こそが、その人の人生の専門家である」という言葉そのものなのです。

今年は、日本キャリア・カウンセリング学会 の第26回大会の実行委員として、交流会の企画・司会進行、シンポジウムの Zoom オペレーターを務めさせても頂きました。学会の方々は、初めてお会いする方々が殆どで、最初のうちは気後れしてオンラインミーティングでもなかなか発言できずにいましたが、次第にお話に加わることができるようになり、学会の方々のカウンセリングに対する思いにも触れることができるようになりました。この活動のなかではいろいろな出来事がありましたが、一つ書き残しておきたいことは、学会の方々との対話を通じて、私自身が抱いていた「カウンセラーの立ち位置」に対する思い ( つまり、私をナラティヴに引き寄せる言葉にみるカウンセラーの姿勢 ) は、このまま大切に持ち続けていてもよさそうだ、という感触を得られたということです。

そして、これはまさしく今朝の出来事ですが、ナラティヴ・アプローチとストレングスコーチングの価値を再発見することができたことは大きな僥倖でした。

私は Gallup の認定を受けたストレングスコーチではありますが、近年はナラティヴに傾倒するあまり、診断の結果をもとにしたガイダンス的なコーチングに対する違和感が強まっていました。しかし、私が学んだ先達のプロ・コーチの方々が YouTube で公開している対談形式のコーチ向け動画 を観て、私はこれまでの違和感を払拭することができました。これまで、私のストレングスコーチングは、クリフトンストレングス(ストレングスファインダー)の診断結果を起点として始まることが殆どだったのですが、カウンセリング・コーチングで自己理解を深めて頂く過程のなかで診断の活用をお勧めすることができそうだ、というごく「当たり前」のことを再認識することができ、さらに、ナラティヴ・アプローチの姿勢とストレングスコーチングの在り方には重なりを持たせることができるという希望を見出すこともできました。このことは私にとって一つの大きな「コペルニクス的転回」でした。まさかこの年の瀬にこのような出来事に出会えるとは、夢にも思っていませんでした。

「ありのまま商店街」について
ポッドキャストのラジオ番組「ありのまま商店街」のパーソナリティを昨年から今年にかけて、第40回まで続けてきました。

このプログラムで私達は、20分前後の会話を続けながら、何かに気づいたり、新たに生まれる発見を楽しんだりしています。私達の声を聴いて頂くことで、穏やかな時間を楽しんで頂いたり、「人」であることを取り戻して頂いたり、自他の違いを認め合い、楽しんで頂いたりして頂けたらと願っています。また、自分は自分でいていい。周囲につけられたタグを外して、ありのままのフラットな自分でいられる場があっていいし、私たちはそういう場を作っていい。そして、ありのままの自分を大切にしたいと思って頂きたいとも思っています。

そして「ありのまま商店街」は、私たちだけでなく、同じように思っていただける方々のためのアーケードとして、いろいろな方々をお招きして、会話を続けていきたいと思っています。

あらためて、いろいろな方々とのご縁が私を支えてくれていることに気づき、大切なお話を聴かせて下さった皆さんに、お礼を申し上げます。

そして、最後に、私のことを毎日支えてくれているパートナーに、小さなフォトフレームの中の父に、グループホームの母と支えてくれている親族に、心からの感謝の言葉を残しておきたいと思います。

皆様、どうぞよいお年をお迎えください。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

心の畑を耕すことについて

私は毎朝、目覚めた時に短時間の瞑想をしたり、起床後にストレッチや軽い体操をしたり、シャワーを浴びたりする時に、自分の心身の声を聴くことを大切にしています。自分の声を聴くという行為は、今、ここで懸命に生きようとしている私という小さな命の存在を認めてあげる行為でもあります。

この一ヶ月ほど、勤務先の仕事にのめり込み、自分自身の変化・成長を感じながら充実した毎日を過ごしていますが、一方で、自分の声からは「心の畑の土が乾いてパサパサになってきている」という Caution が発信されていることにも気づいていました。17日の金曜日、久しぶりに出社したオフィスで、職場の先輩から「今日はため息が深かったね」と言われ、私自身が気づかぬうちに深いため息をついていたことにも気づかされました。

やりがいを感じながら仕事をしていても、自己の内面が荒れていくということは、自分が思う以上に深いところで、早く深く進んでいくものなのだ、とあらためて気づいたのです。(このような状況は若い頃に体験しているはずなのですが、このように知覚して言語化できるようになったことは、私自身の発達だと考えています)。

18日の土曜日、少しだけ仕事の区切りがついたこともあり、久しぶりに学会の方々にメールをお送りしたり、知人の方からお誘いを受けたウェブイベントに参加したり、ストレングスコーチの方とやりとりしたりしたことで、心の畑に水が与えられました。さらに、家内との買い物や食事の時間も感謝の気持ちで過ごし、少しではありますが仕事部屋の片付けや書類の整理をしたことで、心の畑が耕されたように感じることができました。コミュニティの一員として、学習者として、配偶者として、家庭人としての人生役割を務めることで、私は幸せな一日を過ごすことができたのです。

今回は、自分自身が体験した、職業人以外の役割を担うことから得られる幸福感について、書いておこうと思いました。

実りが楽しみな種を頂いても、自分の畑が荒れ放題では、種から芽が出てきません。

心の畑がひび割れてしまわないように、畑の様子を見に行ってあげること。

時にはお水や肥料を与え、土を掘り起こしてあげること。

とても大切なことだと思います。

皆さんの心の畑は、今、どのような状態でしょうか。

働くことだけが人生ではない

「働くことだけが人生ではない」

今日、お話しを聴かせて頂いたクライアントの言葉です。

私たちは、一日にどれくらいの時間働いているのでしょうか。
NHKの生活文化研究所の2020年の調査によれば、男性の有職者は7.52時間、女性の有職者は5.42時間だそうです。普段、もっと長い時間働き続けている方は、このデータに違和感をもたれたことでしょう。調査結果を一読してみると、職には就いているが、今までと同じ時間働けなくなってしまった方々が増えているという背景があるようです。

私達は、日々の糧を得るために仕事をしていますが、それは自分が思うほど得られないこともあります。一方で、働くことから得られるものは、金銭による報酬だけでなく、知識や技能、そして、働きがいもいったものもあります。

この「かい(甲斐)」という言葉は、働くにつけば「働きがい」、生きるにつけば「生きがい」、育てるにつけば「育てがい」、教えるにつけば「教えがい」、というように、自らの行為を通じて生まれるものだと分かります。そして、一方から一方へ、というものではなく、「ありがとう」「よかった」といった言葉や、笑顔によって、人と人の間を行き来し、社会を還流するものです。お金も社会を還流するものですが、お金は交換により還流するのに対し「かい」は「感じて表す」ことによって還流します。

行動によって自らの内側に生まれるものを、現わすことで還流する。
還流により受け取ることで、再び自らの内側に生まれるもの感じ、育む。
「かい」とは、そのようなものなのだと思います。

このように考えると、いったい、人生とは何でしょうか。苦悩に満ちたものでしょうか。それとも、自らの内側にかいを生み、時間をかけて、それを社会と交わし合うことでしょうか。

「働くことだけが人生ではない」

私より20歳以上も若い今日のクライアントのお話を通じて、私はこの問いかけに対する一つの答えを学ばせて頂いたような気がしてならないのです。本当に、その通りだと思います。

「かい」は、どこからどのように、あなたのもとに訪れるのでしょうか。もし、今、あなたが苦しみを感じていたとしたら、その苦しみは、あなたが「かい」を求めているということを裏付けるものだ、と言うことはできないでしょうか。そして、あなたは、ご自身の人生の脚本家として、どのような「かい」に満ちた物語を執筆したいとお思いになるでしょうか。

自らが自らの最も辛辣な批判者になる前に

私たちは、いろいろなことについて自分自身で考え思い悩むが、ときには自分ではどうにもならないことがある。何度も繰り返し考えるのだが、同じところを堂々巡りしてしまう。
私たちが悩む時、「ほかの人はどう思うだろうか」「ほかの人なら何と言うだろうか」ということが頭に浮かんでくる。その時に想像する言葉は、かなり辛辣なものになりがちである。誰も認めてくれまいと思ってしまうし、「それはおかしいことだ」「ダメなことだ」「変なことだ」とみんなが言うだろうと思ってしまう。
(略)そうしたなかで、すべての、または大部分の原因は自分にあるという考えに行き着くことも稀ではない。そうすると、結局のところ、自分自身が頑張るしかない。今までもそれなりに頑張ってきたつもりではあるが、それでも不十分だったのだ。だからもっと頑張り続けないといけない、という結論に、いつもたどりついてしまう。
このような状況においては、自分ではしっかり考えようとしているつもりでも、さまざまな要素を十分に踏まえて検討しているとは言いがたい。なぜならば、「結局は自分がいけないのだ」だから「これからも頑張り続けるしかない」という結論が決まっているからである。


(引用:国重浩一著「もう一度カウンセリング入門 心理臨床の「あたりまえ」を再考する」日本評論社)

このブログを読んで下さった皆さんは、この文章を読んでどのようなことを感じられたでしょうか。

生きていると、「自分がいけない」「自分が頑張るしかない」という結論によく行き着くことがあります。むしろ行き着かないことの方が稀かもしれません。そして、私たち一人ひとりが環境のなかの一部であり、自分自身の行動が環境を変える要因になっていることも確かです。

私たちは往々にして、このように「決められた答えに行き着く」ための内的な会話をしてしまいがちですが、私たちはこの答えをどこから、あるいは誰から与えられたのか、ということについて一考することができます。私達は、自らを取り巻く環境によって自分自身を築いてきた訳ですから、私たちがよく口にする「自分が頑張るしかない」という言葉も、私たちを取り巻く環境から私たちが知らず知らずのうちに取り込んだ言葉です。もし、実際に、今、歯を食いしばってご自身が頑張るしかない状況にある方であったとしても、違う環境で生まれ、育ち、違う人生を歩んでこられたとしたら「これは自分だけではどうにもならない。助けてほしい」と言えたかもしれません。つまり、私たちは、本来、決められた答えと違う答えを選ぶことも、あるいは、同じ言葉の奥にある希望を見つけ出すこともできる存在なのです。

もし、誰かがあなたの隣にいて、「『自分で頑張るしかない』という言葉は、いつ頃、どこから、あなたのもとに来たのだろうか」と問いかけてくれたとしたら、どのような会話が続いていくでしょうか。
「助けてほしい」という言葉を選ぶことを肯定してくれる、あるいは、溜息とともに現れた「自分が頑張るしかない」という言葉の奥深くにある、あなたの希望に気づこうとしてくれる人がいたとしたら、私たちの社会はどのように変わっていくのでしょうか。

先日「追いやられた言葉を発見するということ」という投稿で「カウンセリングの可能性」について少しだけ触れましたが、「自らが自らの最も辛辣な批判者になる」ことを推奨する現代の日本社会において「人が問題なのではない。問題が問題なのである」と言える機会を広げていくことも「カウンセリングの可能性」を広げていくことだと考えています。

2021.11.23 太田黒公園の紅葉です。