「いかしあう」取組み

今日もアナザー・ジャパンでお買い物。北海道と東北の産品がズラリと並ぶ店内を、パートナーと一緒にゆっくり見せて頂きました。

「こちらは知り合いの方が作っているもので、とても美味しいので仕入れてきました!」

と店員の方が自ら仕入れた品物について目を輝かせて語って下さったのは北海道出身の学生の方。

ついつい、あれもこれも、となってしまい、ほたて味のスープのラーメンや、じゃがいもで作った芋焼酎を始め、津軽びいどろの箸置きなどを買ってきました。

このお店のみなさんは、故郷の地と、東京の「架け橋」となっているんですよね。
かの地にいる方々の営みと、それを知っているお店の方々。
物語が、東京で語られ、そういう人や、営みや、創り出されたもの、醸されたものの存在を知り、訪れた人達をファンにしていく。

このような関係づくりが、まるで雪の結晶のように、外へ外へと広がっていく。
土地と土地、人と人、営みと営みの「いかしあい」なのだと思います。

お店の暖簾のデザインは、日の丸をバーコードにしたものだと思っていたのですが、あの線は、都道府県の数と同じ47本あるのだそうです。

話は変わりますが…

今日は Che Guevara が死んだ日。
そして John Lennon が生まれた日。

我が二人のヒーローは、同じ日に、生と死でつながっています。

Guevara は私が生まれた年に亡くなったので、55年です。

私が大好きな Guevara の言葉。

If it were said of us that we’re almost romantics, that we are incorrigible idealists, that we think the impossible: then a thousand and one times we have to answer ‘yes we are’.

もし私たちが空想家のようだといわれるならば、救いがたい理想主義者だといわれるならば、できもしないことを考えているといわれるならば、何千回でも答えよう「その通りだ」と。

私が大好きな John の歌。

You may say I’m a dreamer, but I’m not the only one.
I hope someday you’ll join us, and the world will live as one.

二人が残してくれた言葉は、ずっと私の北極星です。

一人ひとりが、今を生きて、いかしあう世界。
銃を取った Guevara も、ギターを取った John も、願ったものは同じだったのだと思っています。

学び続けるということ(2)

今年の2月から参加させて頂いている、ナラティヴ・セラピー・ワークショップ・シリーズ2022
全10回のワークショップも、昨日で8回目が終わりました。

このワークショップを通じて、様々な方と会話をして、アウトサイダーウィットネス&リフレクティングの会話や、昨日のコラボレイティヴ・チームのワークをやってみて、今、分かって来たことを整理しておきたいと思います。

一つは「自分が何を聴きたがっているか」ということ。
昨日のダブル・リスニングのワークを通じて、私は会話のなかで、その人の懸命さや、頑張ってきた経験、人としての思いやりや優しさなどを探す癖があることに気づきました。また、どうにかして、踏み外したら崖に落ちそうな、尾根づたいの道のりから抜け出していきたいと考えていること、そして、それは会話の相手の願いというよりは、私自身が抱いている怖れなのだということにも気づきました。もっと、会話の相手について、多くのことを訊ね、相手の内側と外側で起きていることを聴いていかなければならないと思います。

二つめは「言葉にすることがいかに大切か」ということ。
私自身、ナラティヴ・セラピーを学べば学ぶほど、自らの内側にある言葉が、いかに外から取り込まれたものばかりであるかということが分かり、自分らしい言葉や表現を探そうとすると、うまく出てこないということがわかりました。逆に言えば、会話において、言葉にすることを助けていくという役割は、決して小さな役割ではないということもよく分かりました。会話を続けようとする時は、自らの気持ちを表現しようとすることに努めつつ、助けを借りることに後ろ向きになる必要はないのだということ。このことは、自らの学びの記録としてここに書き記しつつも、多くの方にお伝えしたいことでもあります。

三つ目は「プラクティス」が大切だということ。
会話の相手も、私も、そしてお互いのナラティヴ(物語)は日々更新され続けています。実際、同じ逐語録を読んでも、一か月前と今日では、感じたり、受け取ったりすることが違います。その違いを生むのは、自らの成長もあれば、その日その時の状況や心境も大きく影響しているのでしょう。このようなことから、ナラティヴ・セラピーとは、「今、目の前にいる会話の相手と、この私の在り方によって生まれる唯一無二の会話のテロワール」なのだと理解することができました。であるがゆえに「その場限り」の実践を、会話を通じて、お互いの言葉や問いかけを口に出していくということを大切にしなければならないのだということや、まして、目の前にいる人のオルタナティブ・ストーリーをその人と著述していこうとするならば、このことは欠いてはならないことなのだということがよくわかりました。

わたしのなかに残ったこれらの理解、あるいは感覚は、ナラティヴ・セラピーは理解と実践を繰り返しながら磨かれていくものであるということ、そして、磨いていくという行為は、ナラティヴ・セラピーが信じる姿勢や技法を、会話のある様々なところに、小さく小さく忍ばせていくことができるのではないだろうか、という私にとって新たな希望の灯のように思えます。

目や耳だけによらず、五感を通じて、日常的に言葉を取り入れ、自らの内側で再編集し、改めて相手に聞いてもらう。相手にも同じプロセスを繰り返してもらう。 この繰り返しによって生成されるものがあり、それは豊かになり続ける。このことを実践できれば、ナラティブ・セラピーは、様々な会話のなかにその種を埋め込んでいくことができるのではないか。

今は淡く不確かな希望ですが、この灯が灯っていることを自らのなかに感じ取っているのです。

アナザー・ジャパン

東京駅からほどなくの場所にある地方産品のセレクトショップアナザー・ジャパンに行ってきました。このお店は、三菱地所と中川政七商店という企業の力を借りながら、地方出身の学生の方々が、自ら選んだ商品を売っているお店です。ガイアの夜明けというTV番組で取り上げられてから、私よりもパートナー(奥さん)が気になっていたショップです。私も行ってみたいと思っていたので、久しぶりに晴れた今日の午後、出かけてきました。

日の丸がバーコードになったようなデザインの暖簾
店頭で私達をお迎えしてくれた、BOCCO emo
花のような箸置き
天草更紗のデザインのペンケース
焼海老辣油 (後で食べてみようと思います)
クラフトマンシップを感じる品々

私「ここにある商品は皆さんが選んでいるんでしょう?」
お店の方「そうなんです。私は福岡出身なんですけど、地方では、こういう商品を小さなところでおじいちゃんやおばあちゃんが作っていたりするんですよ」

レジでお会計をしてもらう間にお店の方に話しかけてみると、その表情はとても活き活きしていました。このショップを自分のものにしようとしている気概を感じて「職業体験」という言葉を使うのはお店で働いている方々に失礼な気がしました。企業が実施している、よくあるインターンシップとは異なり、実際に商品を選び、仕入れ、売るという事業を興す新しい時代の就職だと感じました。

その後、久しぶりに東京駅のエキナカ・エキチカのお店を探訪してきたのですが、そこで「KIOKE SHOYU」というお店のイベントに出会いました。本丸のお店は東京銀座の「松屋」にあるそうですが、このイベントは、日本の様々な地域で作られている醤油の見本市のようなイベントでした。

過日、友人から送られてきた富山の写真をきっかけに「 Discover Japan 」ブームが起きています。これはちょっとおおげさな言い方ですが…

一方、東京駅のエキナカ・エキチカの他のお店も、これまでに見たことのないお店が出店していたり、これまでにあったお店にも、新しい商品が陳列されていたり、とにかく刺激的でした。

アナザー・ジャパンや KIOKE SHOYU で日本各地の産品と触れ合ったからかもしれませんが、時間をかけて、自然の恵みと向き合い、職人の方々が技能を磨きながら作ったり、醸したりしたものを、ここに住む私達は、ほんのわずかな時間で選び、お金を払い、そして消費する。さらに、短い周期ででより刺激的なものを探し求める。

東京というところは「消費地」なのだと感じるとともに、いたずらに興味・関心を刺激され、消費に明け暮れてきた私達が、今、本当に欲しているものは何なのだろうと思いました。

「ここにあるものは、もう欲しくないものばかりだ」

私のなかに、ときにふと、このような言葉が浮かんでいました。

今を生きるということ(1)

私自身は、自己概念というものはあると考えていて、それはインターアクション (Interaction) によって生成されるものだと考えています。ただ、その人の中核となるしっかりとした自己概念があるという考え方を貫こうとすると、多様かつ変化の激しい現代を生きることは大変苦しい営みとなり、生きづらさというものも連れてきます。

傷つくアイデンティティのイメージ(固いアイデンティティは、傷だらけになるので苦しい)

一方、中核となる自己概念は、人生を生きる上で様々な環境・状況に適応しようとする際の「複数の私(分人)」によって構成されているという平野啓一郎さんの考え方を大切にしたいと考えています。この考え方に、ナラティヴ・セラピーの治療的会話との親和性も見出しています。

環境に適応しながら生成されていくアイデンティティのイメージ

分人によって構成されるアイデンティティは、たんぽぽの綿毛のようなものに包まれているが、その中心にはおぼろげな「この私」が生まれている。そのようなイメージを持っています。

たんぽぽの綿毛のようなアイデンティティのイメージ

また、 インターアクションしながら作るものが「かい(甲斐)」です。「かい(甲斐)」とは、自分以外の人や物事とかかわることによって与え合うもので、例えば、心の充足、充実感や満足感、達成感、生きる喜び、学びといったものがあり「生きがい」「働きがい」「やりがい」などと呼ばれるものをイメージして頂けたらと思います。そして、あえて「価値」という言葉を使わないのは、命や人生について考えようとしているこの文章の文脈と「値打ち」という意味を含む言葉の間にしっかりとした距離をおいておきたいからです。ここで、Tree Of Life の書き方とその出典の書籍とともにご紹介します。

「人生の木」( Tree Of Life )の書き方

人生の木を根元から書いていくと、最後に花と種を描くことになっています。私が描いた「たんぽぽの綿毛のようなアイデンティティのイメージ」の綿毛の元には、次の時代に残したい種があります。

私の場合、自分の種のなかには、命を大切にすること、人がモノとしてではなく人としていきること、一人ひとりの物語をないがしろにしないこと、自らを取り囲む当たり前を疑うこと、戦争を拒否することを込めたいと思います。そして、この種は、どこに落ちてもしぶとく芽吹き、花が咲き、実を結び、種を落とすものにしたいのですが、種ですから、やはり土壌が必要です。

次の時代の土壌に蒔いてもよい種にするには「この私の木」の土壌を変えていくことが大切になります。その土壌とは、私が日常的に行なっていることです。自らの日常を、自らが「しっくりくる」ものに変えていく。今の土壌のなかに潜んでいる、どうもしっくりこない言説(ディスコース)の存在に気づき、抵抗を試みること。そして、自らがしっくりくる「当たり前」を創っていくこと。これが、私の土壌の改良に繋がっていきます。

土壌の改良による「よい種づくり」を通じて、私自身の人生を「かい(甲斐)」に満ちたものにしたいと思っています。そして、この土壌の改良という営みこそ「今を生きる」ということなのだ、と気づかせてくれた本をご紹介したいと思います。

著者は、この本のなかで「資本主義とは、あらゆるものを道具化する巨大な機械」であり「自分の時間を利益を生むための道具として使うことに長けている人々は、現在の生活を将来の幸福に向かうための移動手段としか考えられない」と言っています。そして、クリシュナムルティが1970年代にカリフォルニアの後援会で言った「私は何が起ころうと気にしない」という言葉を引用し、こう述べています。

「クリシュナムルティが言っているのは、悲しみや哀れみや怒りを感じてはいけないということではない。この先悪いことが起こらないように努力することが無意味だと言っているのでもない。『何が起ころうと気にしない』生き方とは、未来が自分の思い通りになることを求めず、したがって物事が期待通りに進むかどうかに一喜一憂しない生き方だ。それは未来を良くしようという努力を否定するものではないし、苦しみや不正をあきらめて受け入れろという意味でもない。そうではなく、未来をコントロールしたいという執着を手放そうということだ。そうすれば不安から解放され、本当に存在する唯一の瞬間を生きられる。つまり、今を生きることが可能になる」
「(略) 計画というのは、すべて現時点での意思表示にすぎない。自分のささやかな影響力で未来にどう働きかけたいか、その考えを明らかにしているだけだ。未来の側にはもちろん、それに応じる義務はない」


今、自らの土を耕すこと。当たり前のことを組み替えて、新しい日常を創っていくこと。このことは、自らの Culture を再構成することであり、やってみる「かい」のあることです。
この投稿に掲載した手書きの絵も、Culturepreneur を目指すための、一つの小さな試みです。

お金を大切にすること(1)

自宅マンションの修繕積立金の値上げ、円安、物価上昇という環境のなか、生活者として取りうる施策の一つとして、ふるさと納税をやってみることにしました。

さとふる」や「ふるさとチョイス」で日本各地の自治体が扱っている返礼品から、その土地のファンになれるようなものを選んでいこうと思います。2,000円の自己負担額以外は税金の前払いということになりますが、生活必需品を返礼品で賄う形で毎年利用している友人もいて、私も「もっと早くからやっていればよかった」と思います。今回は唐津を応援することにしました。

私には既に生まれ故郷に実家がないので、このような制度を使うことで、日本の各地の名産品を知り、関心と関わりを持てることは、日本という国をあらためて好きになるきっかけをくれる素敵なことです。

はたらくこと(1)

人はいつか死ぬ。逃れられない事実。

機械人間になってまで生き永らえたいとは思わないが、すでに私達は「言語化され、思考や行動に指針を与えるもの」によって、既に充分にモノ化されてきた。

未来を生きる世代に残したいものは、私達の親や私達が普及させたものではない。少なくとも、生態系の頂点に立ち、野放図に自類の利便を追求し繁栄を実現させようとする世界ではない。

それは「この命」と「あらゆる命」が共棲することを前提とする世界であってほしい。

新しい「あたりまえ」を創りたい。
自分にできることは何だろう。

話し相手をもつこと(1)

あることをきっかけに、自分のやりたいことを整理する機会が訪れ、昨日、友人のSさんと、その小さな企てについて話し合ってきました。

新宿のカフェ、開店前。

話し合いのなかで、私は「このことは世の中のためになると思っているのだけど、本当は、これをすることでまず自分を救いたいんだ」と彼に伝えることができました。それは、自分の心の鍵をガチャンと外した瞬間でした。

話し合いのなかでこのようなことが起きるのは、そこに「心理的安全性」ができていた証しです。そして、心理的安全性は「信頼関係」によって生成されます。信頼関係を築くには「自分の弱さを打ち明けてもいい」と思える場にすることが大切です。

ブレネー・ブラウン:傷つく心の力

https://digitalcast.jp/v/11750/

カウンセリングの場合、信頼関係の構築をカウンセラーがリードすることもありますが、実はクライアントのリードによるところも大きいのです。自分の弱さをさらけ出した時、人は新しいステップを踏み出すことができる。昨日の会話はカウンセリングではありませんでしたが、そのことをあらためて確信しました。

自分のなかにある希望や、胸のうちに秘めたことを話せる機会は、実はあまり多くないのではないでしょうか。幸せな時間でした。Sさん、ありがとう。もう少し、会話を続けていきたいと思っているので、お付き合い下さい。

学び続けるということ(1)

ナラティブ・セラピーを学び続けて、足掛け4年。体系的な学び直しが始まってから半年経ちました。
昨日もワークショップに参加し、ディスカッショングループの方々と充実した時間を過ごしたものの、ナラティヴ・セラピーとは何かという問いかけに的確に答えることができません。

ひとを問題とせず、問題を問題とする会話
・そのひとの人生の旅路に役立つものを見つける会話
・「このひと」が支配されているストーリーとは異なるストーリーを見つける会話
・唯一無二の「このひと」の未来に繋がる物語を見つける会話

といろいろ案を考えた末、私としては

「このひと」を問題とせず、「このひと」の物語の証人となり、「このひと」の新たな物語を、「このひと」の言葉で著述することに関わるための会話法、及び姿勢の総称

と、このように表現をしてみましたが、どうしても何かが表せていないように思えます。

昨日のワークショップでは、ナラティヴ・セラピーを発展させたセラピストのマイケル・ホワイトの著書「ナラティヴ実践地図」から学びました。この本の第2章「再著述する会話」では、彼とクライアントの会話が「現在・過去・未来」の順に進んでいったことが図示され、それぞれの時制毎に逐語を参照しながら「行為の風景」と「アイデンティティの風景」についてクライアントと会話したことが記述されています。「リアムとペニー」という親子とマイケルの会話が「現在」「最近の歴史」「以前の歴史」「ずっと以前の歴史」という形で遡られていることに着目して、私が想起したのはエリク・エリクソンの発達段階説です。

エリクソンの発達段階説とは? 8つの段階まとめ (kodomo-manabi-labo.net)

また、第3章の冒頭には、以下のような記述があります。

「アイデンティティの基礎となるのは、核となる自己よりも、むしろ『人生協会』であるという考え方によって、リ・メンバリングする会話は形作られている。この人生協会の会員は、その人の過去、現在、そして予測される未来における重要な人物からなり、当人のアイデンティティの構成に関して、影響力のある声を持っている。(中略)リ・メンバリングする会話は、人生協会会員の身分を改訂する機会を提供する。たとえば、ある会員の身分を昇格したり、降格したり、名誉会員にしたり、会員資格を剥奪したり、さらにその個人のアイデンティティの問題に関してある声には権限を与え、別の声からは権限を取り上げたりすることができる。
 リ・メンバリングする会話の目的は、受動的な回想ではなく、重要な人物との関係の歴史や、現在および予測される未来の重要人物と目的を持って関わり直すことである。人々の人生においてリ・メンバリングされる人物の同定には、数々の選択肢がある。リ・メンバリングする会話において重要だとされるのに、直接の知人である必要はない。たとえば、大切だった本の著者かもしれないし、映画や漫画のキャラクターでもいい。人である必要さえなく、その人の子供時代のぬいぐるみやお気に入りのペットが選ばれたこともある。」
(引用:「ナラティブ実践地図」第3章 リ・メンバリングする会話 より)

人は成長の過程で様々な外部環境・他者(おもちゃやペットを含め)との接点を通じて、自らのアイデンティティを築いていきます。その過程において生まれたエピソードの記憶を呼び起こすプロセスが、ナラティヴ実践地図には豊富に残されています。このことの例示の一つとして、過日投稿した河瀨直美さんの東京大学入学式での祝辞の一節を思い出しました。

ちなみに、ナラティヴ・セラピーには「人生の木」を書くというワークがあります。こちらは、あるワークショップに参加した時に私が書いた絵です。

「浄化とお返しの木」

ご興味がある方は、こちらからフォーマットをダウンロードして、ご自身の人生の木を描いてみて下さい。ご自身の人生に誰が関わってくれたのかがよく分かると思います。

「人生の木(ツリーオブライフ)」というワーク – ナラティヴ実践協働研究センター (npacc.jp)

一方、私達はそのアイデンティティを直線的に発達させると考えることには無理があるでしょう。人生には紆余曲折があり、ブリッジスの表現を借りて、通過儀礼のアナロジーを用いるならば、人は「生まれ変わる」こともあるのです。

「手放す」ことがもたらすもの

たとえアイデンティティが一貫した分かりやすい成長を辿ることばかりではなくとも、クライアントはエピソードの選択を自ら、あるいはカウンセリングに同席した家族、あるいはアウトサイダーウィットネスの力を借りながら行使します。クライアントが自らしっくりくるエピソードを選び、行為の風景とともにアイデンティティの風景を紐解いていくという、クライアント自身の主体性(エージェンシー)を信じ切ることを前提にすれば、その人の中核に一つのアイデンティティがあるという考え方に固執する必要はなくなります。

逆の言い方をすれば、そのようなプロセスに立ち会うことになるセラピストやカウンセラーは、専門家としてこのプロセスに立ち会うことの意味をよく理解しておく必要があります。一方で、専門性を携えながらも、クライアントと同じ立ち位置に立つ必要があります。

・・・ナラティヴ・セラピーを学ぶことがキャリアカウンセリングに役立つことに触れたかったのですが、この調子ではいつまで経っても終わらないので、今日はここまでにします。・・・

余暇を楽しむ (1)

金曜日に大切な仕事をやりきって、少し自分へのご褒美が欲しかった昨日、パートナー(奥さん)が平日放映した番組の録画を見せてくれました。パヴァロッティ&フレンズ というチャリティ・コンサートや、玉置浩二さんや小田和正さんのコンサートの映像を観ながら食事をして、幸せな時間を過ごしました。玉置浩二さんのこの歌は、聴く人の隣にいてくれるような気持ちにしてくれます。夫として過ごしたい時間を、音楽と共に過ごせるようにしてくれたパートナーに心から感謝しています。

私にとってこのような時間は、仕事でエネルギーを使い果たした後の充電でもあり、自分が機械になってしまうことを防ぐための時間でもあります。自分の心に繋がりなおし、自分は人間なのだということを思い出すための時間です。大好きな新宿御苑に行くことは、空を仰ぎ、風に触れ、樹木や小さな命を見つめることで、自らも小さな命であることを思い出すという意味があります。写真を撮ることは、自分の心が見つめたものを切り取って残すことで、自分の心を表したいのだと思います。

2022年7月10日(日)、朝の新宿御苑

食事もそうですよね。自分が人間になる時間ですから、味わうことが大切です。
たとえ10分でも、5分でも、「この私」である瞬間を大切にしながら生きていたいと思います。